朝5時より成田に向かう。車中上海展に向かって準備を重ねてきたこの一年が思い出されます。この企画は元を探れば1991年北京故宮博物院で開催された「現代日本絵画展」で中国訪問団の一員として中国政府に招かれて北京行った時、同行していた張瑜という若い女性との出会いから始まります。
私も当時出品作家の中では若手グループの一人でした。彼女は当時ある画商に勤めておりましたが後に独立して日中の文化交流の仕事をする聚友国際交流という会社を設立しました。私の個展に何度か来てくれたりと交流が続き1995年には上海の著名美術家朱先生の美術館開設を記念しての式典に日本美術代表団として張女史より誘われて、評論家の鈴木進先生と画家の中路融人先生と上海市に招かれて行きました。その時、張女史の上海での美術関係者と政府関係者との交流の広さに驚かされました。一昨年秋に新宿高島屋での個展中、張女史に私が世界各地での展覧会開催を夢見ていると話したところ私の絵なら中国に紹介してみたいと云う事になりました。私は西洋画と日本画の統合を目標に制作を続けてまいりましたので北京より中国の西洋交流の窓口である上海での展覧会を要望しました。
昨年春に主催と会場を決める為、妻と張女史と上海に出向きました。思った以上に私の作品を評価して頂き光栄にも上海美術家協会と上海美術館が主催を申し出てくれました。その上会場には上海美術館の使用を許可してくださいました。上海美術館主催での外国人の個展は過去数回それも世界的作家しかなくもちろん日本人では初めてということですので上海美術家協会は後援に主催は上海美術館にお願いすることになりました。もちろん張女史が間に入ってくれたお陰です。政府にも働きかけて日中国交正常化30周年記念という肩書きまで頂きました。ここからこの一年が始まりました。
この企画以前から秋には阿倍野近鉄と大丸京都店での大個展が決まっておりましたし、その続きとしてスズラン百貨店創業50周年記念の個展までが入ってきました。美術館主催ということは中国政府の主催ということで、小泉首相の靖国問題やら日中の政治問題にも一喜一憂しました。国民性の違いもあり中国側と、いろいろ問題も起こりました。張女史と言い合ったこともありました。70点近い作品を全国の収蔵家の皆様から借りなければなりませんでした。前に述べた展覧会の作品の制作もしなければなりませんでした。どうしても思うように制作が進まず画商さんや百貨店に多くの迷惑もかけました。上海人民美術出版社で作った出品作品の画集では言葉の不便と校正など郵送時間が掛かってもうひとつ思うように出来ませんでした。訪中団の団長にとお願いしていました海部俊樹元総理は法務のため行けなくなりました。多くの問題を乗り越えやっと本日3月9日私の53歳の誕生日に訪中団72名と現地で合流する8名と合わせて80名で福岡・関西・成田空港より上海に向かいます。訪中団は美術評論家の永井信一先生を団長に海部元総理が会長を勤める(社)国際芸術文化振興会の専務理事を務める野呂芙美子女史が海部元総理の代理で副団長として同行してくださいました。画商さんはニシムラ美術・ギャラリー双鶴・永善堂画廊・木田画廊・ギャラリー白石・増保美術・新生堂・ギャラリー西田・純画廊・画廊きよみず・三浦アートギャラリー・赤井一恵堂の皆様。そして収蔵作品を出品して頂いたコレクターをはじめ日ごろよりご支援いただいています気心の知れた皆様の集まった団体ですので楽しい旅になるはずです。
上海に着くと私たち夫婦と永井先生と張女史そして同行して頂いている月刊美術の小川社長と共に団体と分かれ美術館会議室で開かれる記者会見に向かいました。少し遅れて記者会見は美術館の張堅副館長の司会により始まりました。新聞社は「文かい報」「解放日報」「新民晩報」「上海晨報」「上海日報」「労働報」(香港)「大公報」放送局は中央より国際放送日本語部・上海東方テレビ局・上海ラジオ局、雑誌社は中央より「人民中国」・「今日上海」・「漫歩上海」など30社近い新聞・ラジオ局・雑誌などの記者が集まりその多さに圧倒され通訳を入れての慣れない会見に何をしゃべったのか分かりません。会見後展示が終わっていた会場に記者の方々と移り、68点の綺麗にそして華やかに飾られた自分の作品の前に立ち、やっといつもの自分に戻りました。
記者の方々から賞賛の言葉を頂いてふつふつと喜びの気持ちが湧いてきました。展示が終わった会場でのひと時が私にとって、きっと出産を終えて初めて我が子を胸に抱いたときの母親の心境と同じく苦しかったことを一瞬に忘れさせてくれるひと時なのです。44回目を迎えたこの個展ほどその喜びを強く感じたことはありませんでした。その楽しい気持ちのまま、夜の食事会になりました。それも70数名の方に私の53歳の誕生日を祝って頂いて喜びも倍増し忘れられない夜となりました。私のお礼と感謝を込めまして、今回ツアーに参加していただきました皆様に上海展を記念して制作しましたリトグラフ「風雅秋霽」を目録にてプレゼントさせていただきました。
訪中団の皆様には無錫・蘇州と観光を終えられ、皆様綺麗に着替えて中国側が開いてくれる晩餐会に出席しました。迎賓館が改装中のため代わり使われている錦江飯店の一室に赤い地に「日本画家澁澤卿画展歓迎会」と中国語で白く抜かれた大幕が飾られ、美術館の張堅副館長の司会・北京放送で国際放送局の有名アナウンサーの張国清氏が通訳をしてくださって宴会が始まりました。
中国を代表して中国日本友好協会李鉄民副会長・上海市美術家協会の朱國榮副主席など歓迎のご挨拶を頂きました。その上、迎賓館お抱えの特級料理長が作る絶品の料理の数々は充分歓迎の気持ちが我々に伝わってまいりました。特別に取り寄せたマオタイの強いアルコールがますます気持ち良くさせてくれ夜遅くまで宴は続きました。
日本を出るときに見たインターネットでは10日・11日と雨マークで心配していましたが10日もそして開幕式が執り行われるこの日の朝も日本晴れ、いや上海晴れのさわやかな春の光がホテルの窓から射していました。まず訪中団の皆さんは美術館の入り口に立つ澁澤卿展の大きな看板と100数年の歴史がある美術館のすばらしさに見とれ、そしてまもなく軍楽による華やかな演奏と上海トップモデルの案内嬢たちの出迎えで会場に入りました。9日に私は会場に来ていますが演奏と綺麗な案内嬢そして美術館では異例なことだそうですが両側から花の良い匂いが漂い会場も綺麗に飾り付けられていてあらためて感動しました。お花は議員絵画連盟会長 海部俊樹元総理大臣・群馬県 小寺弘之知事・日蓮宗管長 総本山身延山久遠寺法主 藤井日光猊下をはじめ中国文化部対外連絡処・中国日本友好協会・中国美術家協会・上海市美術家協会・上海中国画院・群馬県境町・日中友好会館・日中協会・国際芸術文化振興会等々多くの団体の代表より頂きました。また多くの方々より頂きました祝電も会場内の大看板横に連名で記載いたしまして飾らせていただきました。開幕式は上海美術館方増先館長の挨拶から始まりました。方館長は美術家協会会長も勤める上海1・2の画家でもあります。今回、展覧会のタイトルの字を書いていただきました。中国では誰がその展覧会のために祝字を書いているかがその展覧会の重要性を判断する大きな要素となるそうです。次に日本駐上海総領事杉本信行名代田代和宏副領事・上海美術家協会朱國榮副会長の祝辞、続いて海部元総理大臣の祝辞の代読を野呂芙美子女史が、私と張瑜女史のお礼の挨拶を挟んで日蓮宗管長藤井日光法主猊下のお祝いの言葉を齋藤邦昭身延山庶務部長が代読してくださいました。中国日本友好協会李鉄民副会長の祝辞のあと全員によりテープカットが行われ開幕式が盛大に執り行われました。
中国側からはその他上海美術館李向陽実行館長・上海博物館李俊杰館長・文化部対外連絡局周文英・上海文史研究館除福生館長・上海美術家協会張雷平副会長・陳旗副秘書長・上海新聞出版局祝君波副局長・著名評論家黄可先生などその他大勢の方々にお越しいただきました。画集にお祝いの字を書いていただいた中国美術界最高責任者中国美術家協会党委書記金毓清先生が病気で入院中のため来られませんでした。しばらく展示作品を鑑賞したり写真を撮ったりして頂きまして、日本側からの歓迎に対して感謝で答える宴を開く為、建工錦江大酒店の会場に向かいました。建工錦江大酒店の項巨力総支配人は日本での研修中に張女史と一緒に私の展覧会にも来ていただき上海での展覧会を薦めてくれた方です。この日の料理は漢方の第一人者である上海テレビ大学王世豪教授と漢方の仕事もしている張女史が処方し、復旦大学教授藩家佶博士と何度も試食を重ねて日本人が食べやすく身体に良い薬膳料理の品々でした。いままで中国で頂いた薬膳料理と比べると匂いも強くなく大変おいしく中国の皆様も日本の皆様も大変満足したようでした。妻のお礼の挨拶で締めくくらせていただいた感謝の宴を終え、訪中団の皆さんは買い物へ、夜は雑技団へと夜更けるまで上海最後の夜を楽しんでいたようです。翌日、何の事故もなく皆様無事に帰国の途につかれほっといたしました。皆様のご声援にこころより感謝いたします。このような展覧会を開催することができましたのは、訪中団の皆様はもちろんのこと、このたびは諸事情により上海までお越しいただけませんでしたがこの展覧会に出品して頂いたコレクターの皆様、そのほか多くのコレクターの皆様方、また、日ごろよりご支援いただいております皆々様のお力添えがあったればこそと、心より感謝いたしております。これからもますます画道に精進いたす所存です。これからもご支援・ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。
上海美術館より要請があり今回展覧会の出品作品「浄界盛麗」50号を上海美術館で収蔵することになりました。日本人作家の収蔵作品は初めてだそうです。世界各地で開催されます上海美術館収蔵展には必ず展示することを約束してくださいました。
新聞社は記者会見に来ていただいた「文かい報」「解放日報」「新民晩報」「上海晨報」「上海日報」「労働報」「大公報」各社は早速記載され「上海日報」「大公報」は中・英両文記載されました。
その他「新聞午報」「上海英文星報」「申江日報」もあとから掲載されました。
放送局は国際放送日本語部ではニュース以外に特別インタビューの内容をホームページに記載・上海テレビ局・上海東方テレビ局で放映・上海ラジオ局でも中・英両語で放送されたそうです。上海芸術インターネット・上海東方インターネットでも紹介されました。
雑誌社は「人民中国」(全国唯一対日本発行・日本語)は6月号で・「今日上海」は5月号で・「漫歩上海」では4月号で紹介されます。
会期中は沢山の中国の方々に観て頂き上海文芸出版社形社長・上海教育出版社袁正守社長・震旦大学張恵利理事長など著名な方々に来ていただきました。とくに目立ったのは授業の一環として展覧会を見学し感想文を提出させる美術大学や専門学校の学生が多いいことに驚かされました。
日本では美術館の入場者の多くは年配者ですが、私の展覧会会場は若者で溢れていました。
入場者全員にアンケート用紙を渡し記載してもらいました。先に述べましたが若い人が多く意見も率直で大変参考になりました。日本と違いほぼ全員が真剣にアンケートに答えてくれます。
好きな絵はほんとうに分かれました。私にとっては嬉しい結果です。今までに観た日本画と違いとても興味がある。との答えも多く、続けての展覧会を望む声も多かったのは嬉しいことです。
(株)サン・アート発行の「月刊美術」5月号において今回の展覧会が紹介されます。
今回、社長の小川女史が上海まで同行していただいたので団長の永井信一先生の文章を加えて 良い記事になると思いますので、書店にてお求めください。
(株)生活の友社発行の「美術の窓」5月号においても永井信一先生の同行記が掲載されます。 書店にてお求めください。